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Hiro — 連作
ACT I — ORIGINS

第四章:誇りの棘

称賛は甘く、誇りは美しい。だが誇りは、ときに棘になる。棘は小さく刺さり、気づいたときには礼の形を変えてしまう。
Hiro連作(全30章) 4 / 30 甘さのあとに残る痛み

大会が終わった翌日、町は何事もなかったかのように動いていた。昨日まで境内に並んでいた屋台は片づけられ、仮設の土俵の俵は運び出され、白線は風と足跡に溶けた。祭りのあとに残るのは、ほんのわずかな紙屑と、薄い煙の匂いと、誰かの笑い声の残響だけだ。だが広の中には、昨日が残っていた。勝利の甘さよりも、勝利の手触りが残っていた。あの俵の熱さ。自分の中に走った暗い快感。礼を深くしたときの、胸の涼しさ。

学校へ行く道で、広は何度も声をかけられた。「優勝したんだって」「すごいな」「相撲部入れよ」。そのたびに広は笑った。笑いながら、胸のどこかが少しずつ硬くなっていくのを感じた。硬くなるのは悪いことではない。だが硬さが、柔らかさを押し出してしまうとき、心は自分の形を失う。広はまだその危険をはっきりとは知らない。だが危険の匂いは嗅ぎ取っていた。

昼休み、クラスの誰かが言った。

「広、もうプロ行けんじゃね?」
「横綱になれよ。名前、覚えとくわ。」

横綱。その言葉は、軽い冗談のように投げられたのに、広の胸には重く落ちた。重いものが落ちると、沈む。沈んだものは、底で形をとる。広はその形が怖かった。怖いのに、嬉しい。嬉しいのに、恥ずかしい。恥ずかしいのに、誇らしい。心の中で、いくつもの感情が絡まり合った。

放課後、広は一人で体育館の隅に行った。誰もいない床は、昼間の喧騒を忘れたように冷たかった。広は靴を脱ぎ、靴下のまま床に立った。床は土ではない。返事はない。だが冷たさはある。冷たさは、余計な熱を落ち着かせる。広は静かに頭を下げた。土俵がないのに礼をする自分が、少しだけ滑稽に思えた。だが滑稽さの奥に、必要なものがある気がした。礼は、場があるからするのではない。自分の心に場を作るためにする。祖父が言った「戻る」という言葉が、ようやく輪郭を持ち始める。

その夜、祖父の家へ行くと、祖父は珍しく外に出ていた。玄関の戸が半分開き、庭に灯りが落ちている。祖父は庭の隅で、小さな棘のある枝を剪定していた。薔薇でもない。だが枝には確かに棘があり、祖父の指には小さな赤い点がついていた。広が「血、出てる」と言うと、祖父は平然として言った。

「棘はな、気づかないうちに刺さる。」
「刺さっても、すぐには痛くない。だから厄介だ。」

広はその言葉が、自分に向けられている気がして、胸がざわついた。祖父は広が優勝したことを、詳しくは聞かなかった。勝った相手の名前も、決まり手も、点数も聞かない。ただ、広の目の奥を見ている。祖父の目は鋭いのに、優しい。優しいからこそ、広は隠せない。隠したくても、隠すほど自分が小さく見えてしまう。

縁側に座ると、祖父は湯呑みを出した。夏の終わりの空気は、どこか薄い。蝉の声が少しずつ遠ざかり、夜が早くなる。広は湯呑みを両手で持ち、口をつけた。祖父は言った。

「褒められたか。」
「褒められるのは悪くない。だが、褒め言葉は、棘にもなる。」

広は思わず「どういう意味?」と聞き返した。祖父は、庭の暗いほうを見ながら答えた。

「褒められると、人は自分の顔を守りたくなる。守りたくなると、負けが怖くなる。負けが怖くなると、勝ち方が汚くなる。」

広は息を呑んだ。昨日の決勝で、自分が一瞬「相撲じゃない」道へ踏み出しかけたことを思い出した。祖父は見ていないはずだ。だが祖父は、見ているかのように言う。広の中で棘が刺さった場所を、祖父は言葉で撫でる。撫でられると痛みが出る。痛みが出ると、棘の存在に気づく。

「じゃあ、褒められないほうがいいの?」

広がそう言うと、祖父は首を横に振った。

「褒められてもいい。だが、褒め言葉の行き先を間違えるな。」
「おまえが褒められているんじゃない。相撲の形を崩さずに取れたなら、その形が褒められている。」

形。祖父の言葉はいつも、そこへ戻る。形を守る。形を崩さない。広はその夜、初めて、勝つことよりも難しいものがあると知った。勝つのは一瞬だ。だが形を守るのは、ずっと続く。ずっと続くものは、いつも見えにくい。見えにくいから、棘が刺さる。

翌週、広は学校で小さな出来事に遭遇した。体育の時間、相撲の簡単な練習をすることになり、広は「強いから」と言われて、みんなの前で手本を見せることになった。広は嬉しかった。だが嬉しさが膨らむと、棘が動く。広は無意識に、少しだけ乱暴に押した。相手の子は転び、肘を擦りむいた。周囲が「大丈夫?」と騒ぎ、相手の子が泣いた。広は一瞬、苛立った。自分は悪くない。相手が弱い。そう思った。

その瞬間、広は自分の中の棘をはっきり見た。棘は小さい。だが棘は、人の言葉をねじ曲げる。人の優しさを鈍くする。広は相手の子に手を差し伸べた。差し伸べながら、自分の心が硬くなっているのを感じた。硬さは、守りに似ている。だが守りが過ぎると、誰も近づけない壁になる。

その夜、広は祖父の家へ行き、何も言わずに湯呑みを受け取った。祖父は広の顔を一度見て、静かに言った。

「棘が動いたな。」
「棘があるのは仕方ない。だが棘で相撲を取るな。」

広は驚いて祖父を見た。祖父は理由を聞かなかった。広も理由を言わなかった。言わなくても、祖父には伝わってしまう。伝わるのは怖い。だがその怖さは、広を正しくする怖さだった。

広は祖父に言った。

「俺、横綱になれるかな。」

祖父はすぐに答えなかった。庭の暗いほうを見て、湯呑みを置き、指の小さな赤い点を眺めた。そして、ゆっくり言った。

「なれるかどうかは知らん。」
「だが、なりたいなら、先に相撲になれ。」

広はその言葉の意味が分からなかった。相撲になる。人が相撲になるとはどういうことなのか。だが分からないからこそ、言葉は広の中に居座った。居座る言葉は、やがて広を動かす。動かすまで、時間がかかる。時間がかかるものほど、人生を変える。

帰り道、広は夜風を吸い込みながら歩いた。空には星が少なく、街灯が眩しい。街灯の眩しさは、影を濃くする。広は自分の影を見た。影は長く伸び、細く、どこか棘のようだった。広はその影に負けたくないと思った。影を消すのではなく、影を正しい場所へ置きたいと思った。

その夜、広はいつもより深く頭を下げて眠った。誰に見せるでもない礼を、自分の中で繰り返した。礼は祈りに似ている。祈りは、棘を抜くための手ではない。だが棘が深く刺さる前に、心を柔らかくする。柔らかくなれば、棘が動いても気づける。気づければ、踏み外す前に戻れる。

広はまだ知らない。棘はこれからも何度も刺さることを。褒め言葉よりも甘いものがあり、勝利よりも濃い快感があり、そしてそのすべてが「相撲じゃない」道へ誘うことを。だが広は、棘の存在を知った。知ったことは大きい。知らない棘は刺さるが、知っている棘は抜ける可能性がある。

夏が終わり、空気が少しだけ澄み始めるころ、広の心にもまた、わずかな澄みが訪れた。誇りは残る。誇りは必要だ。だが誇りが棘にならないように、礼がその誇りを包む。広はその包み方を、まだ練習している途中だった。

そして練習の途中で、広は次の扉に手をかけることになる。扉の向こうには、もっと冷たい土と、もっと厳しい沈黙がある。相撲が「遊び」ではなく「生活」になる場所。勝ちが祝祭ではなく、義務になる場所。広がその場所へ入る日が近づいていた。