その夜、部屋の灯りはいつもより黄色く見えた。 たぶん実際は同じ蛍光灯の色だ。 けれど人の心がざわつくと、光は変わって見える。 光が変わって見えると、影が増える。 影が増えると、言葉が増える。 言葉が増えると、世界は急に“狭く”なる。 狭くなる世界の中で、人は息をするために議論を始める。 議論は息だ。 そして息は、時に熱になる。
広は食堂の端に座っていた。 いつもの場所ではない。 いつもの場所に座ると、誰かの視線が刺さる気がした。 針みたいな視線は、刺さるだけならまだいい。 針が言葉を引っ張り出す。 針は小さいのに、心の中の大きな塊を引きずり出す。 引きずり出された塊は、机の上で形を変える。 形を変えると、人は言う。 「こういうことだろう」と。
議論の火種は、最初は小さかった。 テレビの向こうの解説者が言った一言。 週刊誌の端に載った見出し。 どこかの誰かの“正しさ”。 正しさは便利だ。 便利だから使われる。 使われると磨耗する。 磨耗した正しさは、刃になる。 刃になった正しさは、相手だけでなく、自分も切る。
若い弟弟子が口火を切った。 「相撲って、結局、神事なんすか。興行なんすか。」 その質問は、何度も繰り返されてきた質問だ。 何度も繰り返されてきたのに、答えが固定しない質問。 固定しないから、燃える。 燃えると、誰かが自分の信じたい形を押しつける。
「神事だよ。」
「いや、興行だろ。」
「両方だって。」
「両方って、逃げじゃねえか。」
声が重なり、空気が厚くなる。 厚い空気は、胸の奥の息を浅くする。 息が浅くなると、言葉が尖る。 尖った言葉は、誰かを傷つける。 傷つけたあとで、人は“正しさ”で包帯を巻こうとする。 だが正しさの包帯は、痛みを増やすことがある。
広は黙っていた。 黙っていると、皆の声がよく聞こえる。 よく聞こえる声の中に、恐れが混じっているのが分かる。 神事であってほしいという恐れ。 興行であってほしいという恐れ。 どちらも、未来が変わる恐れだ。 未来が変わると、自分の努力の意味が変わる。 努力の意味が変わるのが怖いから、人は“定義”を欲しがる。
「横綱って何なんすかね。」 それは別の弟弟子が、ほとんど独り言みたいに落とした言葉だった。 独り言は時に、議論の中心に刺さる。 刺さった瞬間、皆が少し黙った。 広はその沈黙に、柔らかな重さを感じた。 沈黙が生まれる瞬間は、いつも美しい。 皆が同じ場所を見ている。 同じ問いを見ている。 同じ怖さを見ている。
兄弟子の一人が言う。 「横綱ってのは、勝ち続けるやつだろ。」 別の兄弟子が言う。 「勝ち続けるだけなら、大関でもできる。」 また別の声。 「品格って言うけど、品格って何だよ。」 品格という言葉は、いつも逃げ道にもなるし、牢屋にもなる。 言葉が曖昧だと、人はそこに自分の都合を詰め込む。 そして都合を詰め込んだ品格で、誰かを裁く。
「裁くな。」
その言葉が、広の喉まで来た。
けれど、広は飲み込んだ。
沈黙を抱くと決めたばかりなのに、 議論は広の沈黙をこじ開けようとする。 それが議論の怖さだ。 議論は誰かの口を借りて、皆の心を軽くする。 軽くなると気持ちがいい。 気持ちがいいと、もっと言いたくなる。 もっと言うと、相撲より言葉が大きくなる。 相撲より言葉が大きくなると、土俵が縮む。 土俵が縮むと、力士は息ができなくなる。
広は、土俵が縮む感覚を知っていた。 注目されはじめたころの息苦しさ。 記者が玄関に立つときの息苦しさ。 怪我をして稽古ができない朝の息苦しさ。 息苦しさは、言葉で救いたくなる。 だが言葉で救うと、次に言葉が必要になる。 言葉は薬にもなるが、依存にもなる。 依存した言葉は、いつか自分を裏切る。
議論が熱くなる。 その熱が、まるで夏の土俵のように部屋を満たす。 汗の匂いではない。 正義の匂いだ。 正義の匂いは甘くて、危ない。 甘い匂いは、人を酔わせる。 酔うと、人は自分が正しいと信じる。 正しいと信じた人は、相手に礼を忘れる。
広は思った。 相撲は礼で始まり、礼で終わる。 礼がない議論は、相撲を語っているようで語っていない。 相撲のことを語るなら、まず礼が要る。 礼は言葉ではない。 礼は所作だ。 所作は背中だ。 背中は嘘をつかない。
「女が土俵に上がるのはどうなんだよ」 誰かが別の火種を投げた。 火種は投げると飛ぶ。 飛ぶと、誰かの胸に刺さる。 刺さると、その人の過去も一緒に燃え始める。 過去が燃えると、人は冷静ではいられない。 冷静でいられないと、議論は裁判になる。
「相撲は誰のものだ。」
「伝統は誰のためにある。」
「変えるのは裏切りか。」
「守るのは怠慢か。」
そのとき、親方が食堂に入ってきた。 親方の足音は大きくない。 だが空気が変わる。 親方は議論を止めなかった。 止めないことが、止めることになる場合がある。 親方は湯呑みを持って座り、皆の顔を順番に見た。 目は怒っていない。 ただ、見ている。 見られると、人は自分の言葉を聞き直す。 聞き直すと、言葉の粗さが見える。
親方はしばらく黙っていた。 その沈黙は、議論の上に置かれた重しだった。 重しが置かれると、言葉が軽く飛べなくなる。 飛べなくなると言葉は、初めて“意味”の重さに戻る。 親方はようやく言った。
「相撲は、答えじゃない。」
「問いだ。」
問い。 その二文字で、部屋の熱が少し引いた。 答えが欲しいから揉める。 答えが欲しいから裁く。 けれど相撲が問いなら、裁く必要はない。 問いを抱けばいい。 問いを抱いたまま、土俵に上がればいい。 土俵に上がれば、体が答える。 体の答えは、言葉の答えより誠実だ。
親方は広を見た。 その視線が、広の胸に静かに入った。 親方は広に「言え」と言わない。 だが「背中で言え」と言っている。 広はうなずいた。 大きくうなずかない。 小さく、確かに。 そのうなずきは、議論の中で唯一の所作だった。
夜が深くなり、議論は少しずつ解けていった。 解けたあとに残るのは、疲れではなく、寂しさだ。 答えがないまま終わる議論は、寂しい。 だが寂しさは、成熟に似ている。 成熟とは、答えがないものを抱えることだ。 答えがないのに投げ出さないことだ。 広はその寂しさを、胸の奥にしまった。 しまうと、不思議と温かい。 温かい寂しさは、相撲を愛している証拠だ。
廊下に出ると、外は雨だった。 雨は音を増やす。 だが雨の音は、議論の音とは違う。 雨の音は裁かない。 雨の音は正しさを振りかざさない。 雨はただ落ちる。 ただ落ちる音が、広の心を少し洗った。 洗われた心で、広は思う。 議論は必要だ。 だが議論の中心に置くべきものは、言葉ではない。 土俵だ。 土俵の匂いだ。 礼だ。 そして背中だ。
「俺は、答えを言わない。」
「俺は、相撲で問いを抱く。」
次の章で、広はさらに深い場所へ進む。 綱の前——その手前にある、奇妙な静けさ。 まだ栄光ではない。 まだ称賛ではない。 ただ“近い”という匂いだけがする。 近い匂いは、人を酔わせる。 酔う前に立てるかどうか。 次は、第二十四章:綱の前(before the rope)。